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月はどっちに出ている90年代の 在日コリアンの立場ややフィリピンからの出稼ぎといった当時の日本社会の抱えていた世相全体を 丸ごとマイノリティの側から俯瞰するといった構造の映画 まだ平成の入り口の時期なので昭和感満載で 今…(続きを読む)90年代の 在日コリアンの立場ややフィリピンからの出稼ぎといった当時の日本社会の抱えていた世相全体を 丸ごとマイノリティの側から俯瞰するといった構造の映画 まだ平成の入り口の時期なので昭和感満載で 今見ると確かに公然と差別的な言動が罷り通っていたという事が改めてわかるし バブル崩壊したとはいえまだ経済的にも余裕があった時期でもあって 日本人に驕りの意識は少なからず残っていたのも納得 岸谷五朗が在日2世のタクシー運転手の忠男(ついでにタクシー会社も 同じ在日2世の高校の同期が経営していて 社長の念願としてゴルフ場開発に手を出すっていう いかにもな設定は笑えるが・・・) ルビー・モレノがフィリピンからの出稼ぎコニーで 忠男の母親がやっているクラブでチーママ 忠男がコニーを口説いて同棲するも忠男のいい加減さに愛想をつかす ただこの曖昧さは在日コリアンで(当時の客に対しての立場の弱かった)タクシー運転手という2重の意味での弱者のおかれた位置での世渡りの術として身に着けてしまった悲しい性だというのも上手く表現されており コニーにしても粋がったりはしてもそれがかなわないのも自覚している悲しさがよくわかる そういった悲しみを持った上で 尚且つバイタリティ(これは昭和な時代だから表せたという部分も大きい気がするし 協力した新宿梁山泊の泥臭い活力もあるかもしれない)と喜劇性を持たせた映画に仕上げた崔監督の演出にも共感する
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オリーブの林をぬけて ニューマスター版前作”そして人生は続く”の製作の一コマのエピソードを無理やり膨らませて一本の映画にした感じかな 映画出演がかなった元石工のホセインとプロポーズした相手タヘレが映画の中の役柄としても夫婦の役柄で ある…(続きを読む)前作”そして人生は続く”の製作の一コマのエピソードを無理やり膨らませて一本の映画にした感じかな 映画出演がかなった元石工のホセインとプロポーズした相手タヘレが映画の中の役柄としても夫婦の役柄で あるシーンを撮っているが タヘレのお婆さんからホセインは貧乏で学がないと認めてもらえず タヘレも同調して 口も利かない それでも映画のシーンの待ち時間にホセインはタヘレを何とか口説こうとする 中々強引な理屈だけど必死さはよくわかる こういった映画を見るとキアロスタミの映画術というか 物語が道草しながら 何となく一本の映画になっちゃう不思議さ 素人本人の役柄でドキュメントとも劇映画ともわからない不思議な映画ができる で今回もその感じを締めるラストの超ロングショットは感慨深い
あと助監督でパナヒがスタッフとして出ているのにも驚いた
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武蔵野夫人溝口の現代劇って 戦前の”浪華哀歌”とか”赤線地帯”とかは大好きだし有名だけど この映画はあんまり聞かなかったので 一寸気になって これ昭和26年の作品なんだね 戦前の女性像を体現する道子(田中絹代)…(続きを読む)溝口の現代劇って 戦前の”浪華哀歌”とか”赤線地帯”とかは大好きだし有名だけど この映画はあんまり聞かなかったので 一寸気になって これ昭和26年の作品なんだね 戦前の女性像を体現する道子(田中絹代)と大学教授の夫(森雅之)隣のいとこ(山村聡)とその妻(轟夕起子) いとこの大学生勉(片山明彦)の愛憎劇 溝口の映画にフランス文学の先生ってそもそも合わないと思うが 当時の多分サルトルの実存主義が流行った関係だろうか 妙に観念的な感じが随所にあって 上滑りしちゃった感じが強かったかな 田中絹代とかそれに対してあまりにも頑な感じで 確かに彼女はイメージ的にもあってはいるんだけど 恋心をお互いに抱いている いとこの勉とのやり取りがやっぱり妙に観念的で 一寸見てられない印象 多分その辺の感覚が先だってしまって 受け付けられなかった感があるな 戦後のまだ開発されていない武蔵野の風景を背景に道子と勉が歩く雰囲気はきれいに撮れているんだけど 一寸型にはまったよそ行きの感じがして 溝口の感情を伴ったような流動的な動きではない印象で 映画が終わってどう理解すべきか迷ってしまっていたら クレジットに四方田犬彦の解説があったので(いつもは全然見ないんだけど) 思わず藁をもすがる気分で(笑)見て漸く納得 当時まだGHQの占領下でその検閲を受け入れる必要性があったとか 大岡昇平の本も溝口の映画もすごく流行ったとか それも驚きだが メロドラマの定義は愚かな者達の関係かぁ・・・勉強になるなあ
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ソウルに帰る韓国人夫婦の娘として生まれながら 離婚により生まれて間もなく養子縁組でフランス人の夫婦に引き取られたフレディ(P・ジミン)が 偶然を装いつつ実の親を探しにソウルにやってくる この映画は 自分を養子に…(続きを読む)韓国人夫婦の娘として生まれながら 離婚により生まれて間もなく養子縁組でフランス人の夫婦に引き取られたフレディ(P・ジミン)が 偶然を装いつつ実の親を探しにソウルにやってくる この映画は 自分を養子に出した生みの親に対する 関係の切り結びの問題と フランスで育った事でなによりも個人の自由を最優先する鋼のような(それゆえどこか脆い不安定感を持った 例えば自らが生まれた韓国に対する強い愛憎のような)性格で 外部に対して攻撃的なフレディにとって韓国社会も家父長的な風習も相いれないっていうのはよくわかる その旧来の感覚を押し付ける実の父親に会って反発が生まれ たまたま知り合った韓国人の青年と肉体関係を持ちながら軽蔑のまなざしを向けてふってしまう 父親との親子関係を改めて構築するのに(多分フレディにとっての韓国との関係を整理するのに)数年費やし 会うのを拒んでいた母親とはやっと会えて 連絡先のメールアドレスを聞いたものの 渡されたメルアドは連絡がつかなかった
家父長制の強い韓国方の感覚は 養子に出さくてはならなかった夫婦の苦しさがまずあるように見えるのに対し 個人主義の国で迎えられたフレディにとっては なぜ自分が養子に出されなくてはならなかったのかという 個人のアイデンティティの問題として見るというのがまずあるのと 韓国人であるのは意識しながらフランス人として育つことで余計に個人の自由を信奉し 韓国の風習を受け付けない(受け入れることができない)愛憎と葛藤がヒリヒリと感じられる映画 フェミニズム的な感覚も問われることになる
催涙映画
涙なくしては見ることができない、見終わった後にボロボロになった自分の顔を見るのが恥ずかしくなってしまう強力な催涙弾攻撃 これにヴィクトル・エリセの”エル・スール”とウォルシュの”いちごブロンド”ルノワールの”ピクニック”が加わると、もう強力すぎて眩暈がしそう。でも並べてみて、日本のものが出てこなかったのは、メロドラマを撮れる監督がなかなかいないという事かなあ。(・・・というわけで無理やり1本追加しました)
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